JR外房線「大網」~「茂原」。その5。掩体壕(えんたいごう)。新茂原駅。茂原海軍航空基地跡。(「房総東往還」を歩く。第3日。)
静かな落ち着いた家並みが続きます。土蔵。来た道を振り返る。右は、宗延寺。「新茂原駅」に向かう途中に「掩体壕」が残っているので、探してみます。竹藪の向こう?付近を歩き回り、見つけることができました。農家の一角に。森の中に隠れるようにあります。住宅の裏手。掩体壕(えんたいごう)は、防御設備である掩体の1種で、軍用機などの装備・物資や人員を、敵の攻撃から守るためにコンクリートなどで造った横穴状の施設。欧米ではHAS(HardenedAircraftShelter)と呼ばれる。(「Wikipedia」より)・・・掩体壕について太平洋戦争開戦直前の昭和16(1941)年9月に、木崎・谷本・町保・新小轡・本小轡等の約150戸の民家や東郷国民学校(現東郷小学校)及び寺社等が強制移転を命じられ、茂原海軍航空基地の建設が始...JR外房線「大網」~「茂原」。その5。掩体壕(えんたいごう)。新茂原駅。茂原海軍航空基地跡。(「房総東往還」を歩く。第3日。)
JR外房線「大網」~「茂原」。その6。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)
突き当たりで右折し、すぐ左折します。草むらの向こうの道は、かつての貨物線の跡になっています。(現在)○が上の写真のところ。破線の緑道がかつての貨物線跡。「三井東圧(当時)」からの貨物線があります。(「今昔マップ」より)この付近の今昔。「三井化学」の敷地がかつての海軍基地の中心。東西にかなり広がっています。○が茂原海軍航空基地。西側に司令部などの官舎が並ぶ。(「今昔マップ」より)※「司令部跡」は現萩原小学校、「兵舎跡」は現茂原中学校、「滑走路跡」は三井化学(株)東側の約1,000mの道路。「千葉県立茂原樟陽高等学校」。この学校も敷地もかつての基地の敷地。※農業学科と工業学科を併置する専門高等学校。来た道を振り返る。「文教通り」。道の両側には、茂原市立茂原中学校や住宅地が続きます。「萩原東公園」。茂原海軍航空...JR外房線「大網」~「茂原」。その6。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)
. 順を追って 乱れを戻すための物語 乱れを作るための物語 ろんり りんり 旅先にて 本当にしたい事であったなら もうすでにしてしまっていただろう 人々の集まらないところで
. 順を追って 乱れを戻すための物語 乱れを作るための物語 ろんり りんり 旅先にて 本当にしたい事であったなら もうすでにしてしまっていただろう 人々の集まらないところで
JR外房線「大網」~「茂原」。その4。国道128号。「腰当」交差点で左折。外房線をくぐる。阿久(あく)川。「大多喜天然ガス」マンホール。(「房総東往還」を歩く。第3日。)
農道の先には、外房線の踏切。振り返る。単調な歩道歩き。ほぼ直線。長生郡市広域市町村圏組合章。制水弁。国道の西側の低山の麓に民家が並び、東は広く開け、田園地帯が広がっています。沿道には、自動車販売などの大型店が連なっています。前方に「腰当」交差点。※地名は「こし(抉じ)・あて(洪水)」で豪雨後に洪水の危険性のある川沿いの浸食地という意味。(「未知の駅艘ふさ」HPより)ここを左折し、外房線をくぐります。来た道を振り返る。強い日差しのもと、けっこう疲れた!歩行者専用道。右手に外房線の鉄橋。「阿久(あく)川」。「新川代橋」。下流方向。この付近の今昔。(現在)旧道は一部消滅し、橋を越えた後に復活。(1880年代)「至本納驛道」とあるのが「房総東往還」。「大多喜天然ガス」マンホール。大多喜ガス㈱の前身、「大多喜天然ガ...JR外房線「大網」~「茂原」。その4。国道128号。「腰当」交差点で左折。外房線をくぐる。阿久(あく)川。「大多喜天然ガス」マンホール。(「房総東往還」を歩く。第3日。)
JR外房線「大網」~「茂原」。その5。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)
静かな落ち着いた家並みが続きます。土蔵。来た道を振り返る。右は、宗延寺。「新茂原駅」に向かう途中に「掩体壕」が残っているので、探してみます。竹藪の向こう?付近を歩き回り、見つけることができました。農家の一角に。森の中に隠れるようにあります。住宅の裏手。掩体壕(えんたいごう)は、防御設備である掩体の1種で、軍用機などの装備・物資や人員を、敵の攻撃から守るためにコンクリートなどで造った横穴状の施設。欧米ではHAS(HardenedAircraftShelter)と呼ばれる。(「Wikipedia」より)・・・掩体壕について太平洋戦争開戦直前の昭和16(1941)年9月に、木崎・谷本・町保・新小轡・本小轡等の約150戸の民家や東郷国民学校(現東郷小学校)及び寺社等が強制移転を命じられ、茂原海軍航空基地の建設が始...JR外房線「大網」~「茂原」。その5。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)
JR外房線「大網」~「茂原」。その3。本納城・街道筋の町場。曲尺手(かねんて)・桝形。看板建築。「国道128号」に合流。(「房総東往還」を歩く。第3日。)
「子安神社(橘樹神社の摂末社)」。本納(宿)へ向かいます。街道筋らしい町並み。高台をバックに家並みが続きます。先に「曲尺手(かねんて)」が見えてきます。※曲尺手は、直角に曲げられた道のことで、軍事的な役割を持つほか、大名行列同士が、道中かち合わないようにする役割も持っていた。宿場の出入口には必ず設けられた。「桝形(ますがた)」ともいう。振り返る。ここも「曲尺手」になっています。※「曲尺(かねじゃく)」。来た道を振り返る。曲尺手(桝形)のため、先が見通せない。バス停「本納駅入口」。ここも曲尺手の名残りか?看板建築。看板建築とは,主に東京や関東周辺で関東大震災後に商店などに用いられた建築様式である。具体的には,木造2階建ての店舗兼住宅で,建物の前面を垂直に立ちあげ,モルタルや銅板,タイルなどで洋風のデザイン装...JR外房線「大網」~「茂原」。その3。本納城・街道筋の町場。曲尺手(かねんて)・桝形。看板建築。「国道128号」に合流。(「房総東往還」を歩く。第3日。)
JR外房線「大網」~「茂原」。その4。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)
農道の先には、外房線の踏切。振り返る。単調な歩道歩き。ほぼ直線。長生郡市広域市町村圏組合章。制水弁。国道の西側の低山の麓に民家が並び、東は広く開け、田園地帯が広がっています。沿道には、自動車販売などの大型店が連なっています。前方に「腰当」交差点。※地名は「こし(抉じ)・あて(洪水)」で豪雨後に洪水の危険性のある川沿いの浸食地という意味。(「未知の駅艘ふさ」HPより)ここを左折し、外房線をくぐります。来た道を振り返る。強い日差しのもと、けっこう疲れた!歩行者専用道。右手に外房線の鉄橋。「阿久(あく)川」。下流方向。この付近の今昔。(現在)旧道は一部消滅し、橋を越えた後に復活。(1880年代)「至本納駅道」とあるのが「房総東往還」。「大多喜天然ガス」マンホール。大多喜ガス㈱の前身、「大多喜天然ガス」のマンホー...JR外房線「大網」~「茂原」。その4。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)
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